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### 27.Dec.2,011 ###


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スカパ・フローへの道
ギュンター・プリーン回想録
ギュンター・プリーン 中央公論新社

1,941年に名取書店から訳出、刊行された“U ボート”を改題。

本文だけで 309ページに及ぶハードカバー本であるが、活字は大きく、
行間も広いので、分類するならば中篇に相当するのだろう。

本書が本国ドイツで上梓されたのが 1940年の夏。
多忙な艦長職にあるプリーン自らがペンを執ったとは考え難く、
彼へのインタビューやら資料、メモの類に基づいて
ゴーストライターがまとめた半生記であるらしい。
戦時中のナチス・ドイツのプロパガンダ政策に沿って
出版されたものであることは疑いなく、その点を割り引いて
読む必要があるだろうとは、巻末の解説者の弁である。
日本に紹介されたのは1,941年、つまり太平洋戦争が始まった年の事だったようだ。
大日本帝国臣民の戦意高揚に一役買うようにと、緊急出版されたのだろうか。

後にUボートのエースとなるギュンター・プリーンは、
1,908年01月16日にドイツ中部のチューリンゲン州で生れた。
彼が青年時代を過ごした当時のドイツは、第1次世界大戦の敗北が原因で、
とてつもないインフレに喘いでいた。 海への憧れと生活の為に船員を志し、
下級船員養成所に入り、3ヶ月の速成教育を受ける。
長い求職生活の末、下級水夫として帆船に乗組むものの、
彼の最初の航海で乗船が座礁。 彼は解雇されてしまう。
その後、貨物船や客船乗組みを経て、商船学校に入校。
遠洋航路の船長資格を得るものの、相変わらず職は得られない。
糊口を凌ぐためにナチに入党。 ナチス労働奉仕団の志願団員となる。
明くる 1,933年の早春、海軍士官候補生としてドイツ海軍に入隊。
1,936年、Uボート“U-26”の専任将校を拝命し、潜水艦乗組員の第1歩を記す。
1,938年秋、建造中の新造潜水艦“U-47”の艦長を拝命。
同年12月17日、“U-47”就役。
1,939年10月14日、プリーンに率いられた“U-47”は英海軍最大の泊地
スカパ・フローに侵入。 旧型超ド級(R級)戦艦“ロイヤル・オーク”を撃沈し、
生還を果たす ...

戦時中に刊行された作品のためか、スカパ・フロー進入を始めとする
戦時中のエピソードは全て、簡易に過ぎるきらいがある。
これは機密保持とプロパガンダ政策のせめぎ合いの結果であろう。
どちらかといえば、プリーンの船員時代のエピソードや、
第2次世界大戦前夜のドイツの世相の描写が興味深く、
印象に残る作品であった。
戦記作品として読み始めると失望されるかも知れない。
冷静に考えてみると、“U-47”がスカパ・フローで挙げた戦果は
微々たるものであった。 英国に与えた心理的効果の大きさこそ
想像するに余りあるが、勝ち得た戦果を考えると、
人命を賭して遂行する意味があったのか、疑問は残る。

1,941年2月20日、プリーンの指揮する“U-47”は、フランスのロリアンを出港。
この出撃を最後に、プリーンは“U-47”を去ることが決定しており、
申し送りの為、後任の艦長候補者をも同乗させての出撃であった。
この出撃が文字どおり『最後の出撃』になろうとは ...
3月6日を最後に“U-47”との連絡は途絶。
ギュンター・プリーン艦長以下、“U-47”乗組員の全員が還らなかった。
“U-47”の最後には諸説あり、一説によれば、3月07日の夜から
翌日の早朝にかけて、英駆逐艦“ウォルヴェリン”の攻撃を受け、
“U-47”は撃沈されたと云うが、真相は不明である。

開戦後1年半に渡り、北大西洋を暴れ回ったUボートの英雄の最後には、
沈黙のベールこそが似つかわしいのかも知れない。


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